【子連れで旅行した世界遺産の街クスコ】アルマス広場・太陽神殿・ロレト通り・サクサイワマン遺跡・おすすめの見所
ペルー子連れ旅行(長男中1、次男小4)滞在4日目。リマから早朝のフライトでクスコへ到着した我が家は、ホテルに荷物を預けたあと、徒歩でクスコ旧市街の観光に出かけました。そのあと韓国料理店でお昼を食べ、午後からはツアーバスでクスコ近郊の遺跡を観光しました。ここではその様子をお伝えします。
世界の中心・クスコのアルマス広場
クスコは1200年代前半から300年以上、インカ帝国の首都がおかれていた町です。ケチュア語で「へそ」という意味があり、広大な領土を誇ったインカ帝国の国中から大勢の人や物資が集まり繁栄を謳歌しました。各地方を治める部族の長は1年のうち1定期間クスコに住まなければならないという日本の江戸時代の参勤交代のような制度があったようです。
そのクスコの中心が「アルマス広場」です。太陽神を崇拝するインカ帝国の中心として、広場には黄金で飾られた神殿や宮殿、彫刻が立ち並び、訪れた者を圧倒しました。残念ながら1530年代にインカ帝国に侵略したスペイン軍は、これらの建築物をすべて破壊し、黄金や銀細工はとかして本国を持ち去りました。もし現在のように歴史的文化遺産には守るべき価値があるという概念があったら、インカ帝国の建造物は破壊されず当時の姿を現代にとどめたかもしれません。
しかしスペインも15世紀にイスラム帝国の侵略を受け国土全域を占領されるという苦い経験を味わっています。その歴史的背景を考えれば、インカの神殿を破壊しその上にキリスト教会を建てる、という行為も理解できなくはないのです。
ホテルミドリを出て細い坂道を少し下ると噴水のある広場に出ました。ここからアルマス広場やインカの都クスコの町並を見渡すことができます。ここは知られざる絶景ポイントですね。クスコの標高は3400m。高台から見ると空がとっても近く感じます。
噴水の広場から「世界の中心」と讃えられたアルマス広場を見下ろします。
アルマス広場の南側の町並はこんな感じです。赤い日干しレンガの屋根が続きその周囲にはアンデスの山が見えます。
クスコ旧市街は1983年にユネスコの世界遺産に登録されました。
噴水の広場からアルマス広場とクスコの町を見下ろしていたら、後ろのほうがざわざわと騒がしくなってきました。振り返ると大勢のこどもたちが建物から出てきます。ああ、どうらやこの建物は学校のようです。今日は午前中で学校は終わりなのでしょうか。それにしてもこんな眺めを毎日見れてこの学校の子供たちは幸せですね。
では噴水の広場からさらに坂道を下って行きましょう。
少し歩くだけで息が苦しくなります。普通に町があって人がいるからわかりませんが、クスコは富士山の8合目と9合目の間くらいの高さの場所です。高山病にならないようにゆっくり歩かなければいけません。
ホテルの前の坂道を下り最後に道なりに直角に右に曲がったらアルマス広場に出ました。高い建物がないのでとても開放感のある空間です。
広場は巨大なロータリーになっていて、中央部分には花壇や芝の広場がありベンチが置かれています。その周囲をレンガ敷きの歩道が取り囲み、さらにその外側を広場を1周するように道路がぐるっと取り囲んでいます。
そして広場の一番外周には低層の建物がこれまた広場を取り囲むように立っていて、旅行会社のオフィスや観光客向けの土産物店、それにカフェやレストランなどが並んでます。
アルマス広場の北東側にスペイン人がペルー征服後100年の歳月をかけて建設した大聖堂/カテドラルがあります。実はこの場所にはもともとインカ帝国の創造神「ビラコチャ」を祀るビラコチャ神殿がたっていました。スペイン人はビラコチャ神殿を取り壊し、その場所にキリスト教の大聖堂を建設したのです。現在も大聖堂の足元にはもともとあったビラコチャ神殿の石組みの土台を見る事ができます。
数十万もの兵士をかかえていたインカ帝国はピサロ率いるわずか168名のスペイン人によってあっけなく滅亡させられました。インカ帝国の人々が畏怖する創造神ビラコチャとは「白い人」という意味で、白人のスペイン人はインカの人々にとってまさに神のような存在だったのです。そのためまともに戦うことができなかったとされています。
また「アルマス」とはスペイン語で「武器」の意味です。スペイン植民地時代に、警備する兵士や彼らが持っていた武器にその由来があり、現在はペルーのどの町へ行っても中心にアルマス広場があるます(笑)
上の写真の、左手の建物が大聖堂です。そして土台の石組みはインカ時代のビラコチャ神殿の石組みです。
至近距離から見上げる大聖堂。1600年代前半に完成した歴史ある建物です。
大聖堂を背にして左手にある大きな建物はラ・コンパニーア・デ・ヘスス教会です。上の写真中央の立派な建物です。ここにはもともとインカ帝国第11代皇帝ワイナ・カパックの宮殿がたっていました。土台の石組みはやはり当時の宮殿のものをそのまま使用しています。
広場のさらに南側にはラ・メルセー教会があります。
この教会の地下にはインカ帝国を滅ぼしたピサロやディエゴ・デ・アルマグロのお墓があります。
広場をぐるっとまわって南西側から見た眺めです。正面に大聖堂、その右手にラ・コンパニーア・デ・ヘスス教会が見えます。
インカ帝国時代にはここに黄金で飾られたビラコチャ神殿や皇帝の宮殿がたっており、広場にも黄金の彫刻が並んでいたわけです。
それはどんな景観だったか?
目を閉じて想像してみるのも楽しいですね。
カミソリの刃も通さないほど精巧な石組みが残るロレト通りと12角の石
1530年代にインカ帝国を滅ぼしたスペイン軍は、クスコにあった太陽神殿や宮殿などを破壊し、その上にスペイン建築の町を築きました。しかしインカ帝国時代に作られた土台の石組みは破壊されることなく現在に残されています。クスコの町を歩くと、至る所にそのインカ帝国時代の遺構を見ることが出来きます。インカの石組みは大きいもので何十トンもある巨大な石を積み上げるのですが、石と石のすきまはカミソリの歯も通さないほど精巧に組み合わされています。
その驚愕の石組みが、状態よく保存されている「ロレト通り」へ行ってみました。
ロレト通り
アルマス広場の南東側に建つ、ラ・コンパニーア・デ・ヘスス教会に向かって左手の路地を入るとすぐロレト通りです。ロレト通りに入ってまず思ったのは、「ああ、これは日本の古い城下町みたいな通りだな」ということです。
松江や萩には江戸時代の町並が保存されている街並みがありますが、石や屋根の色が違うというだけで趣はとてもよく似ています。どこかなつかしい気持になるのではそのためしょうか。
ロレト通りには、お店やカフェなどはなく、アルマス広場から南のアフリヒドスまでおよそ200メートルの区間、ほぼ直線の通りに沿って両側に石組の壁が続いています。そのさらに200メートルほど先にはインカ帝国時代に太陽神殿がありました。ですからこの通りはアルマス広場と太陽神殿を結ぶ非常に重要な道だったわけです。
ロレト通りの両側に続く石組みを見ていると、とても1個1個の石を積み上げたとは思えません。まるで長い壁に石組みの絵を書いたという表現のほうがぴったりするほど見事に組み合わさっています。近くで見ても、石と石の間には隙間がまったくありません。それも上下左右のどの面にもです。クレーンのような重機がなかった時代に、これだけの巨石を積み上げるだけでも大変な作業だったと思いますが、それをすきまなく組み合わせて積み上げたなんて、今から500年以上前のインカの人々はいったいどうやってこんな神業みたいなことができたのでしょうか?
しかもインカ帝国には鉄器がありませんでした。またこのような巨石を運ぶ車輪や大型家畜もいなかったのです。それこそ神か宇宙人の特殊な力を借りて成し遂げたと言われても信じるしかないですね。
ロレト通りをアフリヒドスで折り返しアルマス広場へ戻ります。来たときとは反対の眺めもなかなかいいです。正面左手にラ・コンパニーア・デ・ヘスス教会が見えます。
いったんアルマス広場に戻って、今度は「アトゥンルミヨック通り」を目指します。
大聖堂/カテドラルに向かって右手、大聖堂のすぐ南側の路地を進むとバラシオ通りと交差する十字路がありそのすぐ先に人だかりが出来ている場所があります。
12角の石
ここが有名な「12角の石」がある場所です。4角の石を積み上げれば接触する面は4つです。なのにわざわざ石を12角にして複雑な組み方にしているのがこの12角の石です。しかもそのすべてがぴたっとこれまたすきまなくはまっています。
驚いてばかりいられないので、気を取り直して本当に12も角があるのか数えてみました。もし10角や11角ならクレームのひとつも入れてやろうと思ったのですが、何度数えても本当に12角ありました。参りました。これだけ複雑だと、石を積み上げる順番も考えなくてはいけません。その石も他の石と組合わさるのですから例えば12角の石の左に接してる6角の石とどういうタイミングで積み上げたのでしょうか?
考えれば考えるほど頭が混乱してきました。まあそれがわかったからってわたしが実演するわけではないのですが(笑)
12角の石は、インカ帝国の技術力の高さを誇示するためにわざわざこのように複雑な組み合わせにしたと言われています。
さて12角の石を見学したあとは、路地を南へ進みぐるっとまわってまたアルマス広場へ戻ります。
あまり路地から路地へ入っていくと道に迷ってしまいそう。空気が薄くて呼吸が苦しいクスコで、道に迷ったらそれこそ命取りです。
マルケス通り
アルマス広場に戻ったら、今度はマルケス通りなど広場の東側に広がるいったいを散策します。
こあたりは狭い路地でも人通りが多く、お店もたくさん並んでいます。
お土産店も何軒かのぞいてみましょう。
午後からの観光に含まれていないクスコの見所はこれでだいたい見終わりました。
ちょうどお腹も減ってきたので、小池さんに教えてもらった、韓国料理のレストランへ行ってランチにしましょう。
クスコの韓国料理レストラン/サ・ラン・チェでランチ
ご飯類麺類に飢えていた
ペルーに来て4日目。そろそろご飯類だの麺類だのが恋しくなる時期です。クスコには世界中から大勢の観光客が集まるため、そりゃ~美味しいぺルー料理レストランもたくさんあるわけで、大人だけなら少々お値段がはってもせっかくだからそーゆーところで食事をしてみたいとは思います。しかし子供たちの食の細り方をみていると、この先もペルー旅行はまだ長いし、食べたいものをがっつり食べておかないと体調をくずすなんてことになってしまったら大変なので、今日のランチは小池さんおすすめの韓国料理レストラン「サ・ラン・チェ」でいただくことにしました。
「サ・ラン・チェ」とは韓国語で「大切なお客様をおもてなしする部屋」と言う意味。クスコ在住の韓国人オーナー夫妻が経営するお店なので味も本格的。海外では「なんちゃって中華料理」や「なんちゃって日本食」「これのどこが韓国料理」というようなレストランが多いですが、ここなら味も期待できそうですね。美味しいごはんや麺料理を食べたら子供達の食欲も復活して旅を続ける体力も養えるかな。
場所はちょっとわかりにくいところなんですが、アルマス広場からプロクラドレス通りを北に向かっておよそ50mほど進んだら左手に小さなおみやげ屋さんがあります。そのおみやげ屋さんにいったん入って奥へ通り抜けると中庭に出ます。その中庭の奥のほうに韓国料理のレストランがあります。外観はペルーの山小屋風ですが、入り口のドアの上にハングル文字の看板があるのですぐにそれとわかるでしょう。
内装も韓国レストランっぽくはありませんが、シンプルで明るくとても落ち着ける雰囲気です。ランチタイムが終った時間帯なのか、店内にはお客が誰もいなくて、営業していないのかと思いましたが、お店の人が奥から出て来て席に案内されました。
メニューはハングル語と英語、、、ん~~日本語の説明もあったような気がしますが、空気が薄いせいで記憶がさだかではありません。でもメニューには料理の写真が載っているので心配ないと思います。
「おお~~おれこれ食べたい!」「おれはこれ!」
料理の写真を見て子供たちが興奮します。まだ日本を離れてたった4日くらい(時差があるので)しかたっていないのに、ごはん類や麺類のメニューを見てこの食いつき方です。やはり子供は大人以上に環境、とくに食環境の変化に対する耐性が弱いのだと思います。
あれこれ悩んだすえに決めたのは
「キムチチャーハン」
「ラーメン定食」
「プルコギ定食」
「ビビンバ」の4品です。
チヂミや冷麺も食べたかったのですが、高地のせいでしょうか、みんなお腹は減っているのに食べたいと言う欲求がそれほどありません。なので4人で4品に押さえておきました、って普通だからーーそれ。
オーダーが終ると、お茶と小皿料理が数品運ばれてきました。日本のお茶とはちょっと違いますがお茶が飲めるのはとっても嬉しいです。それにこのような小皿料理が付いて来るのは、本格的な韓国家庭料理屋の特徴ですね。これは味のほうも期待できそうです。
キムチチャーハン。小スープが付いています。チャーハンの横にスライスした胡瓜やトマトが乗っているのは東南アジア風ですね。キムチの味がしっかり効いた美味しいチャーハンです。
プルコギ定食。韓国でプルコギを食べた事がないのでこれはよくわかりません。我が家ではプルコギと言えば「コストコ」のプルコギです。付け合わせのレタスもちょっと違和感がありました。でもこれはこれで美味しかったです。
ラーメン定食。ラーメンはインスタントです。そこに香辛料や野菜を加えています。インスタントですがものすごく美味しかったです。そもそも麺類に飢えていたのでインスタントだろうが何だろうがラーメンなら何でも美味しく感じたことでしょう。大喜びであっという間にたいらげました。スープはちょっとピリ辛なので辛い食べ物が苦手なお子さんは注意して下さいね。
野菜中心のビビンバ。あっさりした味です。お腹が減っていたらちょっと物足りないかもしれません。
料金とアドレス
料金は4品で105ソルー38ドル。
久しぶりにごはんや麺を食べれてしっかり「充電」できた感じです。
- 住所:Calle Procuradores 341
- Tel : 23-5877
- 営業時間:1200ー1500 1800-2100
- 定休日:日曜日
では空気の薄い中、息を切らしながら坂道を上っていったんホテルに戻りましょう。
クスコのカテドラル見学ツアーで酸欠になりボンベ・マスクのお世話になりました
クスコの交通手段について
クスコの主要な観光スポットやレストラン、お土産物ショップなどはアマルス広場周辺に集中しているので、徒歩でじゅうぶん回ることができます。一方、サクソイワマンやケンコー遺跡などクスコ近郊の見所や、聖なる谷、ウルバンバあたりまで足を伸ばすなら、タクシーやローカルバス、乗り合いバスのコレクティーボなどを利用します。タクシーやローカルバスで回ると自分たちの自由に行動できますが、一方で交渉や手配などめんどうな面もあります。めんどうやトラブルを避けたい子連れ旅行者には、ツアーに参加してこれらの見所を周遊するのもおすすめです。
我が家が参加したツアーの内容は下記のような感じです。
クスコ市街と近郊4大遺跡観光ツアー
- アマルス広場に集合
- カテドラル入場
- 太陽神殿入場
- ケンコー遺跡>サクサイワマン遺跡>タンボマチャイ遺跡に入場観光
- アルマス広場で解散
ツアーのいいところは時間を有効に使えるところです。移動するための交通手段を手配したり運行状況や時間を心配する必要がありません。また行き方を詳しく調べる必要もありません。
ただガイドさんにくっついて行動すれば、主な見所を効率よく回ることができます。バスやコレクティーボを利用して移動するより時間を有効に使えて値段も安く押さえることができると思います(値段は交渉次第)。
子供が小さいうちは移動中や観光スポットでガイドさんが説明しているときに子供が騒いで迷惑をかけないか、あるいは子供のトレイの心配など、団体行動のツアーに参加するのはハードルが高いと思います。今回我が家の子供達はもうこんな心配とは無縁の年齢ですが、小さなお子さん連れのご家族は、よくよく考えてから計画されることをおすすめします。
交通の起点
クスコはまた、聖なる谷、マチュピチュ、チチカカ湖方面への観光の起点となっています。
クスコ~マチュピチュ、クスコ~チチカカ湖にはペルー鉄道の路線があり、車窓の景色を楽しみながら移動することがきでます。クスコ~マチュピチュは日帰りも可、バスも運行しています。一方クスコ~チチカカ湖は日帰りは不可。こちらのルートにも鉄道の他に、途中の観光スポットに立ち寄りながら1日かけて移動する片道バスツアーもあります。
さて韓国料理屋でランチを食べたあと、一旦ホテルに戻り呼吸を整えてから(高地のため酸素が薄く少し歩いただけでも息が切れます)「クスコ市街と近郊4大遺跡観光ツアー」の集合場所であるカテドラル前へ向かいます。ツアー集合時間は午後2時。ホテルミドリからなら走れば1~2分で行ける距離ですが、こんな空気が薄い場所で走るなんてとても無理~~(><)。じゅうぶんな余裕を持って10分前にホテルを出発しました。
アルマス広場のカテドラル前からツアーはスタートします。
まずカテドラルに入場し内部を見学したあと、バスで移動するようです。ツアーにはわたしたちを含めて40名くらいの参加者がいました。ガイドは英語で説明をします。最初に簡単なあいさつとツアーの概要説明がありそれから点呼/名前の確認がありました。
そのあといよいよカテドラルに入場します。
カテドラル見学
カテドラルはインカ帝国時代、首都クスコの象徴的な建物であったビラコチャ神殿を壊してその上に建てられたキリスト教の聖堂です。建物の土台の石組みはビラコチャ神殿のものがそのまま使われています。スペインがインカ帝国を滅ぼした直後の1550年に建設が始まり、完成まで100年の歳月を擁したスペイン建築の傑作で、皮肉なことに現在もクスコのシンボル的な存在となっています。
内部は写真/ビデオ撮影が禁止されているため写真はありませんが、ポトシ産の銀300トンを使ったメインの祭壇は見応えがあります。また約400ある宗教画のなかで、メスティソの画家マルコス・サパタが描いた「最後の晩餐」が一見の価値があるでしょう。「最後の晩餐」の舞台は2000年前のエルサレムですが、この絵にはクスコ名物のクイというネズミ料理が描かれているのです。
カテドラルの屋根には1659年に付けられた南米最大の鐘があり、その深い響きは遠く40km先まで届くと言われています。カテドラルの正面に向かって左側にある小さな教会はヘスス・マリア教会、右にあるのはエル・トリウンフォ教会です。この教会は1536年に建立されたクスコ最古のキリスト教会です。
長男が酸欠で呼吸困難に
カテドラルの内部は吹き抜けの広い空間になっていて、子供達がどうにもじっとしていられません。つつきあってふざけたり走り回ってそのたびにしかるのですがおとなしくなる気配がないため、「これは子供を連れて早めに退場しなければ」と思っていたのですが、急に静かになってガイドさんの説明を聞き始めました。
「あれ?なんだ、いい子にできるじゃないか」
と関心した矢先、ガイドさんが
「こどもの様子がおかしい」
と言うのです。
「いや、黙って説明を聞くようになったからいいでしょ」
と思ったのですが
「さっきまであんなにさわいでいたのに急に静かになるのはおかしい」
と言って長男のカイを医務室へ連れて行きました。
するとカイは酸欠で呼吸困難になっているとのこと。すぐに備え付けの酸素ボンベで酸素を吸入する措置が取られました。
クスコの標高は約3360mで富士山の8合目よりさらに高い場所です。当然平地よりも空気が薄いので、走り回って騒いだり大笑いするとすぐ酸欠になってしまうのです。子供たちにはさんざん言って聞かせていたのですが理解できなかったようです。でもまあこれに懲りて以後、言う事をよく聞くようになりました(笑)。結局カイは5分程度酸素を吸入してもらいしばらく座って休んだら回復しました。それにしても子どもの症状に素早く気づいて対処してくれたガイドさんには、ただただ頭が下がります。
ちなみに酸素ボンベの使用料は無料でしたが、吸引用のマスクを5ドルで買うハメになりました。このマスク、1回こっきりで5ドルとはけっこう高いな、と思いましたが、このあと次男のリュウやママがたびたび酸欠になってこのマスクが大活躍することになろうとは、このときはまだ誰も知らないのでした。
黄金で装飾されていたクスコの太陽の神殿・コリカンチャ
カテドラルを見学したあとツアーバスに乗って移動します。次の行き先はコリカンチャ/太陽神殿です。アルマス広場からほんの600メートルほど南東なので歩いても行けるのですが、ツアーのスケジュールの関係でしょうか、全員がカテドラル前に停車してあった大型バスに乗って移動しました。
現在「サント・ドミンゴ教会」が建っている場所にはインカ時代最も重要な建物であった太陽神殿/コリカンチャがありました。インカの言葉で「コリ」は黄金、「カンチャ」は「部屋」「居所」を表します。太陽の神殿内は、黄金の泉のある広場を囲む月、太陽、稲妻、虹、星などの部屋からなっており、精巧で美しい石組みの壁で仕切られていました。
右上の写真は教会の裏手から太陽神殿を見た様子。見事な曲線を描く石組みの上にサント・ドミンゴ教会が建っているのがわかります。クスコを襲った大地震のときスペイン人が作った教会は崩れ落ちましたが、インカ時代の石組みの土台はひずみひとつ起こさなかったそうです。インカの石組みの精巧さを示す証拠として今に語り継がれています。この場所では現在も発掘、復元作業が続けられています。
15世紀、インカ帝国を滅ぼしたスペイン人はインカ帝国の首都だったクスコではじめてコリカンチャを見たとき、口から心臓が飛び出すほど驚いたことでしょう。太陽神殿を取り囲む外壁には幅20cm以上の黄金の帯がぐるっと装飾されていたのです。そして神殿の中庭には金の石が敷き詰められた畑に金のトウモロコシが植えられていました。その金の泉から水が吹き出し、等身大の金のリャマを連れた人間像もありました。さらに神殿内部は黄金の動物の彫刻がおよそ60cm間隔で壁にはめ込まれ、黄金の祭壇には黄金の太陽像が日の光を浴びてまぶしく輝いていたと言います。
まさに黄金で飾られた神殿だったわけです。
インカ帝国を征服したスペイン人は、神殿の建物を破壊し、土台の上にチュリゲレス様式のスペイン教会を建設しました。そしてコリカンチャにあった金をすべて鋳つぶして本国へ持ち去りました。
なんてもったいないことをしたんだ!と嘆いても仕方ありません。
大西洋横断というリスクに挑み未知の帝国に打ち勝った戦利品を彼らが好きなように略奪しても誰も文句が言えないでしょう。でも彼らの立場にたって考えても、クスコにあった黄金の彫刻や装飾品をすべて溶かしてしまったのはやはりもったいなかったと思います。
インカ帝国からあまりに大量の金が一度に流れ込んだため、当時のヨーロッパでは金価格が暴落、一方でインフレが進行したと記録されています。一部は地球の裏側の未知の民族が作った黄金の芸術品として売った方が、彼らの取り分も大きかったのではないでしょうか?そしてもしそんなことで現代まで生きのびた宝飾品があるなら、そのうちのいくつかをわたしたちもルーブルか大英博物館あたりで見ることができたかもしれません。
サント・ドミンゴ教会の入り口。クスコ大地震の後に再建された建物です。ここから入って教会内に残る太陽神殿の遺跡を見学することができます。
教会内に残る太陽神殿の石組みの壁。カミソリの刃も通さないほど精巧に組まれています。
神殿内の石壁は斜めに傾斜するように組まれています。ここにもインカ帝国の高度な石組みの技術を見ることができます。
部屋の内部には台形の穴が、等間隔で同じ高さに並んでいます。この穴には黄金で作られた動物などの彫刻がはめこまれていました。
また一部の穴は「窓」になっており、春分、秋分の日に日光が部屋の中まで入り込む設計になっています。
ガラスで保護されている少し大きな壁の穴の部分にはインカ皇帝のイスが設置されていました。(左上)
スペイン人に征服されたあと、インカ帝国最後の皇帝アタワルパはこの太陽神殿に幽閉されました。そのとき征服者フランシスコ・ピサロに「この部屋いっぱいを満たす黄金を渡すから立ち去って欲しい」と交渉しました。ピサロはその申し出を受け入れ、大量の黄金を手に入れたあと、アタワルパをキリスト教に改宗させたうえで、結局は処刑しました。
写真右上は生けにえの石台。
神殿の建物の残骸が転がっている場所。
敷地内にはインカ時代、プレインカ時代の出土品を展示するコリカンチャ博物館もあります。
コリンカチャの復元模型。
黄金の泉があった太陽神殿の中庭。現在はサント・ドミンゴ教会の回廊で囲まれた中庭になっています。
裏手の庭では毎年6月にインティライミ(太陽の祭り)が行なわれます。
太陽神殿から見るクスコの町並と山肌に刻まれた文字。右側はペルーの国章、左側には「ペルー万歳」と描かれています。
繰り返しになりますが、、、
イスラム帝国に占領されたスペインの土地をスペイン人が取り戻した後、アルハンブラ宮殿のような他宗教他民族の遺跡を破壊しなかった判断が、インカ帝国のケースでも生かされていれば、とあらためて思いながら、太陽神殿をあとにしました。
はっ?意味は満腹のはやぶさ・巨石を組み上げた要塞遺跡サクサイワマン・クスコ近郊
サクサイワマン遺跡
サクサイワマンはクスコ市街地の北西およそ1.5kmの高台にあるインカ帝国の遺跡です。インカ帝国第9代皇帝パチャクティの時代に建設が始まり、完成までおよそ80年の歳月を擁しました。最盛期には1日約2万人もの労働者が動員されたそうです。クスコの町は南米に棲息するピューマの姿をかたどって造られていますが、サクサイワマンはその頭の部分に位置します。宗教的な目的で作られたのか、要塞、城砦なのか、ははっきりした理由はわかりませんが、遺跡の規模や場所から非常に重要な役割をになっていたものと推測されます。
ちなみに「サクサイワマン」はケチュア語で「満腹のハヤブサ」という意味です。
サクサイワマン遺跡は、巨石を3層に積み上げて造られています。その石組みの技術はクスコやマチュピチュでも見る事のできるインカ独特の精巧なものです。高さ7m、重さ約120トンもの巨石が積み上げられている場所もあり、驚きを通り越して当時の技術で可能だったのだろうか?と不思議に思います。(*インカにはクレーンなどの重機機はもちろん「鉄器」も「車輪」もありませんでした)
巨石は22回のジグザグを描きながら3段に積み上げられており、その長さはおよそ360mにもなります。各段は石で造られた階段で結ばれており、徒歩で遺跡内を散策することができますが、クスコよりさらに標高が高いため空気が薄くあまり早く歩くと窒息しそうになります(笑)。
また遺跡を構成する石組みは巨大な石が精巧に組まれているだけでなく、リャマやヘビ、カモ等の動物の姿にデザインされている場所もあります。かっては巨石の上に東西に並ぶ3つの棟がそびえていましたが、スペイン人によってすべて破壊されてしまいました。
行き方
サクサイワマンへ行くには、クスコ郊外の遺跡をめぐるツアーに参加する方法が一番効率的で安全です。日本出発前に手配することもクスコに到着してから手配することも可能です。一般的なツアーの所要時間はおよそ4時間半、料金は1人20ドル前後です。クスコから徒歩で20~30分で行ける距離ですが、空気が薄いのと治安面の心配があるので、ひとりで行くことは避けたほうがいいと思います。
バス利用の場合はピサック行きかウルバンバ行きの路線バスに乗って途中下車して行くことが可能です。遺跡へ直接行くバスはありません。
太陽の神殿を見学したあとツアーバスに戻り、クスコ市街からくねくねの坂道を登って到着したのがサクサイワマン遺跡です。
遺跡入り口の駐車場でバスが止まりガイドさんの後について遺跡に入場します。ゲートをくぐると案内板やトイレ、土産物ショップ、管理事務所などがありました。
予備知識なしで来たためいきなりこんな巨石の壁を見てびっくり!なんじゃこりゃぁ~~。
広場をはさんで反対側にも石が積まれています。
サクサイワマンが何のために造られたのか理由ははっきりしていないそうですが、1536年5月マンコ・インカ・ユパンキ率いる2万人のインカ兵士が、クスコ奪還作戦のためにサクサイワマンに陣取りスペイン軍に最後の戦いを挑みました。
しかし夜は戦闘しないインカ軍はそのスキを突かれあっけなく敗退、城壁の大半や空に聳える円筒はそのときに破壊されました。だめんじゃん、インカ軍。
説明を聞いたあと遺跡内部に登っていきます。空気が薄いので呼吸がきつい!
曲線を描く石組み。この上に円筒が建てられていました。
カミソリの刃も通さない精巧な石組みはここでも健在です。
階段を通って上の階層へ進みます。かってはここに立派な門があったそうです。
上の段の様子。ここの説明は聞き逃してしまいました(><)
こんな大きな石も組まれています。いったいどうやってここまで運んだのでしょうか?
さらに上の階層へ進みます。まだ先があるのか!という感じ。本当に大きな遺跡ですね。
石組みの上から反対側の石組みを見ます。間にある広場では毎年6月下旬に「太陽の祭りインティ・ライミ」が行なわれ、インカの儀式にあった生け贄も見学できるそうです。
壁の先にクスコの町を見下ろすことができます。本当に高い場所ですね。
広場に降りて来てあらためて遺跡を見上げると、ああなるほど確かに3層構造になっているのがよくわかります。
遺跡を取り抜けるとその先に出口があってバスが待機していました。出口にもトイレやおみやげショップがあります。また民族衣装を纏った女性がリャマと一緒に立っているのでいい記念写真が撮れますよ。
ではバスに戻って次の遺跡を目指しましょう。
インカ帝国の祭礼場ケンコー遺跡
日本でまだJRが民営化される前、日本国有鉄道のことを「国鉄(こくてつ)」「国電(こくでん)」と呼ぶのが一般的でした。新宿や渋谷など複数の私鉄や地下鉄が乗り入れる巨大ターミナルでは、小田急線や都営地下鉄線に対し、「国電(こくでん)乗り場」「国電きっぷ売り場」などという案内表示が駅構内のあっちこっちにありました。
1987年、国鉄が民営化されるにあたり「これからはもう国有鉄道ではないんだから別の呼び方を考えなくてはいけない」ということで、学者やお偉い先生方、著名人が集まって新しい名称を決めました。
それが「E電(いーでん)」です。
この新名称はテレビや新聞でも大々的に取り上げられ、新宿や渋谷、池袋の駅には次々と
「E電のり場」「E電きっぷ売り場」
という案内板が取り付けられました。
でもこの呼び方ぜんぜん定着しなかったんです。今、JRのことを「いーでん」と言う人はいないですよね?駅に行っても「E電のり場」などの案内板を見る事はもうありません。名前や呼び方というのは誰か偉い人が一方的に決めるのではなく、大衆の間で自然と定着していくのが通常の姿なんでしょう。
ペルーの遺跡においてもこれから訪れるクスコ近郊の「ケンコー遺跡」は「ケンコー」と「遺跡」が呼び方においてはセットになっています。「マチュピチュ」や先ほど訪れた「サクサイワマン」、またこの次に向かう「タンボマチャイ」も同じ遺跡なので正式には「サクサイワマン遺跡」「マチュピチュ遺跡」と呼ぶのが正しいのでしょうが、単に「サクサイワマン」「マチュピチュ」という言い方が一般的です。
名称というのは本当におもしろいですね。まあわたしたち日本人にとって「けんこー」というと「健康」とまぎらわしいので「遺跡」を付けて区別しているという説もあるらしいですが事実は不明です。
というわけで(前置き長過ぎー!)サクサイワマンの次に訪れたのはケンコー遺跡です。サクサイワマンからバスで4~5分です。歩いても20分もかからない距離ですね。でも何度も書きますが標高が高いので自分で歩き回って遺跡観光するより、ツアーバスで移動したほうが楽ちんです。治安の心配も無用ですしね。
ケンコー遺跡はクスコのアルマス広場の北東の高台に位置しています。加工された巨大な花崗岩を中心に、儀式をおこなう広場や神聖な像があります。バスを降りて順路に従い遺跡のほうへ下っていきましょう。
巨大な花崗岩=ご神体の入り口にあるピューマの像です。
って、え????
私の想像力が乏しいせいでしょうか、これのどこをどう見たらピューマになるんですかぁ~~??と思ったのですが、背後の巨石の壁に映る影が、時期や時刻によってピューマの姿に見えるそうなんです。いくらインカ帝国ではピューマが神聖な生き物だったとしてもそんなことまでよく見つけたな~~と、まずは入り口で感心させられました(笑い)
やや上部から見たケンコー遺跡の中心の巨大花崗岩です。ここがケンコー遺跡のご神体ですね。巨石には階段や像、オブジェが造り込んでありますが、現在は遺跡保護のため近づいて見学する事は出ません。
オブジェの中でも特徴的なのは巨石上部の表面にギザギザに刻まれた細い溝です。ここに生け贄のリャマの血や、トウモロコシを醗酵させて造る神聖なチチャ酒を流したと言われています。他にも日時計の彫刻や占いに使ったと思われるオブジェがあります。
ケンコー遺跡の「ケンコー」は「ギザギザ」という意味があるらしです。それしても鉄器を持たなかったインカの人々が、巨石をカミソリの刃も通さないほど精巧に加工したり、彫刻を造ったりしたのには本当に驚かされますね。
ご神体の中に入る事ができます。上には登っちゃ行けないのに中はオッケーなんですね。ご神体へ下る階段や内部には通路が掘られています。
内部はひんやりとしていてちょっと厳粛な雰囲気です。パワースポットと言ってもいいでしょう。そしてミイラを寝かせた石造りのベッドもあります。ここは昔から神聖な儀式をおこなう祭殿だったようです。
ご神体の内部は通り抜けできるようになっていて、出口の先にさらに道が続いています。
位の高い人が座った石造りのイスなどがあります。
ご神体のまわりをくねくね歩きながら見学します。遠くにクスコの町並が見えます。
遺跡の出口ではここでもおみやげの露店がありました。ゆっくり物色したり写真を撮ったりしたいけど、出発の時間があるので、後ろ髪を引かれる思いでバスに戻ります。
さあ、次はどんな遺跡へ行くのでしょうか。
も〜息が苦しい!標高3800mに湧く聖なる泉・タンボマチャイ遺跡
ツアーのフィナーレ・タンボマチャイ遺跡
クスコ近郊のインカ遺跡を巡るバスツアーもいよいよ大詰め。ケンコー遺跡の次に立ち寄るのは、ツアーの締めと言うかおおとりと言うか、タンボマチャイ遺跡です。ケチュア語で「タンボ」は宿泊施設、「マチャイ」は休憩所という意味です。遺跡の中心には雨期、乾期を問わず常に一定の量の水が湧き出している「聖なる泉」があります。マチュピチュに向かう途中、インカ皇帝がここで沐浴をしていたと伝えられています。
不思議なのは標高3800m近い高さのこの場所に、どこから水が流れてきているのか、ということです。その源を探ろうと周辺のいろいろな川や池に色素を流して調べましたが、結局判明していません。インカ帝国の人々はサイフォンの原理を巧みに利用して、遠くからはるばる水を引いてきているというのが有力な説となっています。
ケンコー遺跡見学のあと、ツアーバスに乗って、さらに坂道を登っていきます。
「どこまで高い所に登るんだろう」と考えると車内の空気もどんどん薄くなっていくような気がします。窓の外には山岳地帯の集落が点在していて「こんな高地にも人が住んでいるんだな~」と少々驚きながら眺めていましたが、ケンコー遺跡から5分ほど走ったところで次の目的地タンボマチャイ遺跡に到着しました。意外と近かったですね。
バスが止まるとガイドさんが「標高が高いので気分がすぐれない人は無理にバスを降りなくてもいいです。バスに残って休憩していて下さい」と言いました。それでママとリュウはどうも酸欠状態で気分が悪いのでバスに残ることになりました。
バスにはママたちを含め7~8名の乗客が残っていました。
バスを降りると遺跡の入り口があり、ツアー参加者はノーチェックで入場できます。個人で来ている人は周遊チケットを提示しなければ入場できません。
ゲートを入ってすぐのところに「標高3765メートル」の案内板がありました。ひゃぁぁぁ~~。ほぼ富士山の頂上と同じ高さです!そして遺跡はここからさらに登った所にあります。すでに呼吸がく、苦しい。
タンボマチャイ遺跡の中心「聖なる泉」はここから5分くらい坂道を登った所にあるようです。酸素が薄くて身体が鉛のように重く感じますががんばって登ってみましょう。
カイはさっきカテドラル見学のとき騒ぎすぎて軽い高山病になりましたが酸素吸入をしたおかげですっかり元気になったようです。この坂道もすいすい登っていきます。
お、なんだか視界が開けてきて先のほうに遺跡らしきものが見えてきましたよ。
あそこが聖なる泉でしょうか。
タンボマチャイ遺跡の中心、聖なる泉。水が勢い良く流れています
タンボマチャイの中心、聖なる泉です。4段の石組みで構築され枯れることなく泉が湧き出しています。
クスコのアルマス広場に建つカテドラルには地下室がありそこにも絶えず水が流れていることが確認されています。さらに興味深いのは、タンボマチャイに来る途中で見学したサクサイワマン遺跡とカテドラルなどアルマス広場周辺の建物は地下道でつながっているということです。カテドラルはもともとクスコの象徴であるビラコチャ神殿が建てられていた場所です。いったい何の目的でこのような大掛かりな地下道を建設したのでしょうか?
橋を渡って聖なる泉の対面にある石組みの遺跡へ登ってみます。
あんな高い所まで登れるんですね。あそこは完全に富士山の頂上より高いでしょう。3800メートル以上あるでしょうか。
聖なる泉の対面の遺跡の上です。も~~呼吸が苦しい(><)。でもカイは平気みたいです。お前どんな肺してんだ!
対面の遺跡から聖なる泉を見下ろした眺めです。ここから見ると聖なる泉が4段の構造になっていることがよくわかりますね。
このタンボマチャイも巨石を加工し精巧に積み上げられていることがわかります。インカ文明には車輪や滑車、鉄器がありませんでした。もちろん当時は、トラックもクレーン車もシャベルカーもありませんよね。それではこのような巨石をインカの人々はいったいどうやって運んだのでしょか?
調査によると、採石場に残された石には摩擦の跡がなく、摩擦の程度は採石場からの距離に比例して増加していることがわかっています。つまりインカ人は巨石を動かすのに、ころやすべり材さえ使っていなかったと推測されるのです。ころなどを使用しない条件下では、傾斜10%の坂道で、サクサイワマンにあるような150トンの石を動かすためには、およそ2400人もの人出が必要だと試算されています。
インカ帝国の巨石建造物は、インカ皇帝がどれだけ絶大な権力と驚異的な人員動員力を持っていたかを想像するに有り余る証拠と言えるでしょう。
タンボマチャイのすぐとなりにあるプカプカラ遺跡。「プカ」とはケチュア語で「赤い」という意味で、プカプカラ遺跡は別名「赤い要塞」とも呼ばれています。見晴らしの良い場所に築かれていて、ここからクスコへ出入りする者を見張ると同時に、タンボマチャイで沐浴するインカ皇帝に近づく不審人物がいないか監視していたと言われています。
遺跡見学を終えてバスに戻る道ばたでもカラフルな布などを売る露店が出ていました。
「ママたち具合よくなったかな?」
聖なる泉からの帰り道、ふとカイが尋ねます。
「ゆっくり休んだから大丈夫じゃないかな」
バスに戻ったらママとリュウに遺跡の様子を教えてあげようね。さあ、これで今日のツアーは終了です。クスコに戻って美味しい夕食をいただきましょう。
クスコの中華レストランで夕食にチャーハンやワンタン麺を頂く
クスコのレストラン事情
世界遺産の町であるとともに人気観光地マチュピチュやチチカカ湖へのゲートシティにもなっているクスコには、世界中から観光客がやってくるため、レストランがとっても充実しています。ペルー料理はもちろんイタリアン、フレンチから、南米の伝統料理とインターナショナル料理のフージョンも高いレベルで、舌の肥えた外国人観光客を楽しませてくれます。
そしてレストランの多くはアルマス広場周辺に集まっているのでよっぽどへんぴな場所のホテルに滞在していない限り、徒歩で気軽に訪れることが出来ます。またディナータイムは、フォルクローレの演奏や踊りを観られる店も多く、深夜まで盛り上がっています。
クスコは標高が富士山の山頂付近ほどあるため、お湯を沸かしたときの沸点が低いという特徴があります。それが料理の味にどのような影響を及ぼすのか、、、う~~んちょっと分かりませんが、とにかく沸点が低いことは何かしらの影響を与えているんではないかと思います。
夜のアルマス広場はライトアップされとてもきれい。多くのレストランがこの広場周辺に集まっています
インターナショナルなレストランが多いと言っても、やはりペルーですから、伝統的なペルー料理を出す店が主流です。なかでもアンデス料理が目立つのはクスコならでは。予算的には、アルマス広場周辺に点在する観光客向けレストランは、一皿日本円換算600円前後が相場です。ビールは小ビンで200円前後、グラスワインは450円前後といったところです。
一方、地元の人が集まる小さな定食屋は、スープ、メイン、飲み物のセットで200~400円くらいで食事ができます。
予約をしなくても席に余裕があれば、入店を断られることはまずありません。ただし人気レストランに行く事が決まっているなら、予約をしておいたほうがいいでしょう。予約方法はホテルのフロントや現地旅行会社のスタッフにお願いしましょう。
宿泊しているホテルからレストランが遠い場合、とくに夜遅い時間は子連れ旅行者は安全のためタクシーを利用して下さい。レストランでラジオタクシーを手配してくれます。そのとき、お店のスタッフにおおよそのタクシー料金を聞いておき、乗車前に運転手に確認するようにしましょう。
中華レストラン・チーファスィーチョワンの入り口
クスコの中華料理店
タンボマチャイ遺跡の見学が終ったら、バスに乗ってクスコに戻ります。そして出発したのと同じ場所であるアルマス広場に面したカテドラルの前で「クスコ市街と近郊4大遺跡観光ツアー」は終了しました。200~300メートルほど下ってきたので、出発したときより呼吸が楽に感じました。
「息子さんは大丈夫ですか?」
ツアーガイドさんにお礼を言ってお別れするとき、声をかけられました。一瞬何のことかときょとんとしましたが、ああ、そう言えばツアーが始まってすぐのとき、カテドラル内で長男のカイが酸欠状態になり医務室へ運ばれたっけ、「そんなこともあったな~~」と思い出しました。その後元気になったのですっかり忘れていたのです。
「ああ、もう全然大丈夫みたいですよ。あのときはありがとうございました」
と私。それより妻と次男が気分が悪くなってタンボマチャイではバスに残っていました、と付け足すと、ホテルに酸素吸入器があるので、また気分が悪くなったらすぐに利用して下さい、とアドバスイスをしてくれました。ガイドさんにもう一度お礼を言って別れ、夕食を食べるレストランを探します。ガイドブックにも載っている有名な「キンタ・エウラリア」「プカラ」「パチャ・パパ」、、、せっかくクスコに来たのだから、伝統的なアンデス料理やペルー料理をいただきたい気持はあるのですが、酸欠で気分が良くないため、妻と次男は食欲がありません。
「そう言えば、昼間にぶらぶら歩いていたとき中華料理屋を見つけたよね」
スープとかラーメンとそいうものなら食べられるかもしれないというので、昼間の記憶を頼りにその中華レストランへ行ってみることにしました。
そのお店の名前は「チーファ・スィーチョワン」。
「チーファ」はスペイン語で「中華料理」、「スィーチョワン」は「四川省」の意味です。つまり「四川料理の中華レストラン」ということですね。
入り口にメニュー、料理の写真と値段が書かれています。
「うん、これなら食べれるかも」
ということで今夜のクスコのディナーはこの「チーファ・スィーチョワン」でいただくことにしました。
お店に入ってメニューを見せてもらい、注文したのはワンタンメン、チャーハン、チキンスープの3品です。それを4人でわけていただきます。料金は15ドル。海外の中華料理レストランは、「ラーメンっぽいものが食べれる」「お米の料理が食べる」という程度にしか期待してはいけません。もちろんニューヨークやサンフランシスコ、バンクーバー、ロンドンなどのチャイナタウンは別ですが。このお店の料理もそういうタイプというかカテゴリーで、まあ食欲がないのにラーメンっぽいものやチャーハンっぽいが食べれて良かったと思います。
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誤解がないように書きますと、決して味が悪いと言うわけではないのですが、見た目からは想像できないほど味は中華料理と違います。この写真のチャーハンだって、見た目は立派なチャーハンですが、この外見でどうしてこんな味になるんだろーという感じですね。
ワンタン麺
そーそー、こんなところにもキッコーマンの醤油がテーブルの上に置いてあるのにはびっくりしました。
食事が終ったらライトアップされたアルマス広場を観ながら歩いてホテルに戻ります。でもホテルに戻っても、今夜宿泊するのはそのホテルではありません。送迎車に乗って別の町にある別のホテルへ移動するのです。最後にもう一度、アルマス広場の夜景を瞳にやきつけました。
今夜はこれからウルバンバに移動してそこで一泊する計画です。