ギザの3大ピラミッド
砂漠の砂が風に舞っているのか、ちょうど日本の春先の黄砂のように遠くの景色が霞んでいる。
ナイル川に架かる長い橋を渡ると、カイロの雑然とした街並の後方のその霞んだ空に、
三角形の大きな岩山が蜃気楼のように浮んでいた。
ピラミッドが見えてきた
「あはは、すげー!あそこに三角形の山が見えるよ。まるでピラミッドみたい」
とカイが指差す。
その方向を見て、どれどれ、ん~~?
「ピラミッドみたいじゃなくて、ピラミッドそのものだよ、アレは」
「えーーうそ~~」
手前にある街並と比べると本物の山のように大きい。茶畑の背後に、にゅう~~っと現れる春霞の富士山みたいだ。
「あんなに大きいんだね」
ママも驚いて口を開く。
ピラミッドってこんなに大きいんだ!
二十数年前にエジプトを旅行した時も、同じように驚いた記憶が蘇ってきた。あの時と同じ道を通ってピラミッドがあるギザに向かっているのだろうか?
「ジゾー、トモダチ」
考古学博物館の前で声をかけてきた男は「ジゾー」と名乗った。カイロでタクシー運転手をやっているが今日はお客がいないので、よかったらピラミッド観光に連れて行ってあげると。
あの時ジゾーが運転するタクシーからも、こんなふうにピラミッドが見えていたのだ。
町の背後にピラミッドが霞んで見える / ピラミッド大通り
入場ゲート
ピラミッドは台地というか小高い丘の上に建っているから、遠くから見ると実際より大きく見える。
やがてバスは、ピラミッドが建つ台地の麓を走るアブルホール通りに入る。くたびれた集合住宅や雑居ビルがよりかかるように立ち並んでいる。そのうらびれた建物と建物の隙間からたまにピラミッドが現れると、そのアンバランスさに何とも不思議な気分になる。
集合住宅の前には、通りと平行して水路があった。よく見ると、ネズミ色に淀んだ水の上を、板きれや、自転車や、タンスらしきものや、何かの箱や、牛の死体、などがごっちゃまぜになって浮いて流れている。それだけでも驚いたのだが、その水路で洗濯をしている人がいるのにはもっと驚いた。しばらく水路と平行に走ったあとバスは左に折れ、一転してパームツリーの街路樹が整然と続く立派な大通りに出た。ピラミッド通りだ。通りは長い長い登り坂で、坂を登るに連れピラミッドがぐんぐん近づいてくる。
ピラミッド大通りを少し登って左折すると、いよいよ正面にクフ王の大ピラミッドが現れる。下から霊峰を見上げるよな迫力だ。そこはギザのピラミッド群への入場ゲートになっていて、トイレやチケット販売場などがある。われわれの入場料はエクスカーションの代金に含まれているのでここで支払う必要はない。バスはゲートの入り口でいったん止まるが、すぐに動き出す。ゲートをくぐり、それから右に大きく180度反り返るヘアピンカーブをずんずん登ると、ついにクフ王のピラミッドのすぐ目の前に出た。
ギザ遺跡への入場ゲート
ギザの3大ピラミッド
ナイル川西岸のギザ台地には、クフ王、カフラー王、メンカフラー王の3つのピラミッドが建っている。それらを総称して「ギザの3大ピラミッド」と呼ぶ。最もカイロ市街地寄りに建っているのがクフ王のピラミッド。そしてクフ王のピラミッドは、エジプトに現存する108つのピラミッドの中でも最大規模だ。
頂上部分が崩れてしまったため現在の高さは138.74m〔もとの高さ146.59m〕。頂上に鉄の棒が刺してあるがあれは避雷針ではなく、もとの高さを示すもの。底辺、230.37m、勾配、51度50分40、容積、約235.2万m³~280万個積み上げたと計算される。
以前はすべての面が石灰岩の化粧石に覆われていて、現在のような段状ではなく傾斜のある滑らかな面でできた四角錐だった。そして全体が白色に輝いていたと言う。しかし残念ながら遺跡を保護するという概念が無かった時代に、その化粧版が剥がされてカイロ市街地の舗装や建物の補修に使われてしまい、現在のような姿となった。(現在この化粧板は、クフ王のピラミッドの北側最下部や、カフラー王のピラミッドの上層部にわずかに残っている)
クフ王のピラミッド(手前)とカフラー王のピラミッド(奥)
ピラミッドは誰が作ったのか?
このピラミッドがクフ王のものであると最初に述べたのは、ギリシャの歴史家ヘロドトスだ。今からおよそおそ2500年前に活躍した歴史家だが、ちょっと待って。ピラミッドが作られたのは今からおよそ4500年。つまりヘロドトスの生きた時代から見たって2000年も前の出来事なのだ。なんだか気が遠くなるよ~~。じゃあ、彼はいったいどうしてそんな昔のことがわかったのだろうか?そもそもギリシャとエジプトは近いとはいえ飛行機も近代的な船もなかった時代に、どうして遥か海の彼方の砂漠の中にピラミッドなんちゅーもんがあることを知っていたのだろうか?
(ヘロドトスについてわたしの悔しい話しはギリシャ旅行記の「ギリシャについて」を見てね)
ヘロドトスはピラミッド建設のために民衆は強制的に働かされた、と記述している。手かせ足かせをはめられ、ムチで打たれながら、重い石材を運ぶシーンは、映画などでもよく使われた。その一方で、ピラミッドのような巨大な建造物を古代の人が作れたはずがない、あれは宇宙人が古代エジプト人に作らせたものだ、という説が信じられていたこともあった。わたしもこどもの頃はテレビで観てそう信じていた。
しかし最近の調査では、強制労働説も宇宙人説もどうやら違うらしい。
現在わかっているのは、およそ20万人の労働者によっておよそ20年の工期で完成したらしいということ。そして労働者は、ファラオのために喜んで作業を行った可能性が高いということだ。
ピラミッド労働者の村の発掘で、労働者たちが妻や子供など家族と共に暮らしていた証拠や、怪我に対して外科治療が行われていた痕跡が墓地の死体から見つかっている。また、報酬をもらっていたことや、出勤簿みたいなものに「二日酔いのため欠勤」とか「新婚旅行のため休暇」という記述が発見されている。強制的に労働にかり出されていたのなら、このような待遇や証拠は考えにくい。
ピラミッド労働者はわれわれが考えていたよりずっと高待遇だったのだ。
パノラマポイントからの眺め / 露店もたくさん出ている
石見銀山との共通点
同じような話しを、春休みに家族で訪れた島根県の世界遺産「石見銀山」でも聞いた。
江戸時代という封建時代にあって、石見銀山で働く労働者は、けがをした時の特別手当や、炭坑労働が原因で長期の病気や死亡した場合は、遺族に一生分の生活費が支払われるなど、手厚く保護されていた。また労働時間も交代制で、坑内に空気を送る施設や、労働者のための娯楽施設まで完備されていたという。
同じ時代、産業革命がおこったイギリスでは、炭坑や紡績工場で働く労働者は、過酷な条件と長時間労働を強いられ、健康を害したり、早死にする者も少なくなかった。英語で労働を意味するlaborという言葉は、「苦役」という意味が含まれている。
一方、日本語で「働く」は「傍を楽にする」つまり、まわりの人を幸せにするという意味だ。日本には欧米とは異なる労働観が昔からあったのかもしれない。そしてそれは、明治以降の日本の飛躍的な経済発展の原動力であったとも言えるだろう。
サブプライムショックによって、出口の見えない国際的な経済不況に陥っている現代社会のわれわれは、「働く」ことの本当の意味を見失ってはいないだろうか?
日本人が伝統的に持っていた素晴らしい労働観を、もう一度こどもたちと考え直していきたい。
まわりの人を幸せにする「働き」は、ピラミッドを作り、4500年後の世界に生きるわれわれにも、夢と希望を与えているのだ。
クフ王のピラミッドあれこれ
長い間、第1ピラミッドがクフ王のものである証拠は見つかっていなかったが、1839年にイギリス人ハワード・ヴァイズにより、重量軽減の間にヒエログリフに囲まれたクフ王の名前が発見された。これによりこのピラミッドがクフ王のものであることがより確かなものになった。
現在、クフ王のピラミッドに入るための観光用の入り口は、西暦830年にエジプトのカリフ、アル・マムーンが盗掘用に開けたもの。それが偶然本来の通路にぶつかり、女王の間や、王の間と言われている空間を見つけた。しかし、アル・マムーンは、ミイラも財宝も何一つ発見できなかった。なお、本来の入り口は、地上17m、中心線より東に7.3mずれた所にある。
アル・マムーンが見つけたピラミッド内部にある王の玄室には、通気孔がありそれはオリオン座の3つ星の方角を向いている。また玄室内には200トンを越える重さの花崗岩が組まれているが、そのような重さの石材をどうやって持ち上げたのか、解明されていない。
ピラミッド底辺の4辺は正確に東西南北を向いており、4辺の長さは均等。底辺の和には、地球が完全な球体ではないことや、地球の外周の長さが投影されている。そして底辺の和を、ピラミッドの高さを2倍したもので割ると円周率になる。
ピラミッドは何のために作られたのか?
●王の墓という説
最も有力な説だが、ピラミッド内部に王室や棺らしきものはあっても、王の遺体はどのピラミッドからも見つかっていない。また1人の王が複数のピラミッドを作っていることもつじつまが合わない。
●記念碑的な役割
王が太陽に近づくための装置。あるいは春分秋分の日に太陽がどう見えるかといった暦や天体との関係を示すものだという説。
●公共事業説
ナイル川が氾濫する季節に農民に仕事を与えるための大規模な公共事業だったという説。
世界遺産のエリア
●メンフィスとその墓地遺跡
ギザからダハシュールまでのピラミッド地帯は1979年に世界文化遺産に登録されている 。
ダハシュールにある「赤いピラミッド」「屈折ピラミッド」は、第四王朝時代の王、スネフェル王によるもの。そしてこのスネフェル王の息子がクフ王だ。
カフラー王のピラミッド
クフ王の息子、カフラー王のピラミッドは、三大ピラミッドのうち中央に位置する。高さはおよそ136メートル(頂上部分が一部崩れているため、創建当時より低くなっている)。見かけ上、3大ピラミッドの中でもっとも高いように見えるが、それはカフラー王のピラミッドが立っている岩盤が、クフ王のそれに比べてやや高くなっているためで、実際はクフ王のピラミッドの方が高い。
メンカウラー王のピラミッド
カフラー王の息子、メンカウラー王のピラミッドは、三大ピラミッドの中ではもっとも小さい。高さおよそ65メートル。北面には大きな傷跡が残るが、これはピラミッドを破壊しようとしたものが破壊できずに終わったものの名残であるという。
メンカウラー以後のピラミッドは、大きさも小さく作りも雑で、ほとんどが崩壊してしまっている。縮小の理由としては、王権の衰退や、経済状況の悪化などいくつかの理由が検証されているが、正確な理由は謎のまま。
産業革命期の世界遺産
ちなみに産業革命期のイギリスにおいても、労働者のための福利厚生に尽力した人物がいた。
スコットランド/ニューラナークで紡績工場を経営していたロバート・オーエンだ。彼は工場内に病院を作り、こどもの労働を禁止し、そればかりか工場で働く人々の子供に教育を施すなど、革新的な施策を次々に発案し実行した。彼が経営したニューラナークの紡績工場跡は2001年に世界遺産に登録されている。
ギザのピラミッド、島根の石見銀山、スコットランドのニューラナーク。
時代も場所も違えどこの3つの世界遺産には、労働者を優遇したという輝かしい共通点があった。