【ウィーン旅行】ウィーンに引き寄せられた人たちの数奇な運命とかけてザッハトルテと解く
ザッハトルテを食べれたのか?
結論から言うと、われわれはウィーンでザッハトルテを口にすることはできなかった。
ウィーンでの乗り継ぎ待ち時間は5時間。その間に空港を抜け出し、世界遺産に指定されているウィーン旧市街を散策し、ちょいとホテルザッハーのカフェで元祖ザッハトルテをいただいちゃうのよんさま作戦は、無理な話しではないと思っていた。
ところがウィーン空港からウィーン市内へのアクセス鉄道が30分に1本しかない、というのがケチの始まり。行き帰り合計で、駅のホームで電車の到着を1時間も待つハメに。
その1時間があれば、われわれは計画通り、ゆっくりお茶をしながら元祖ザッハトルテをいただくことができたのだ。旅行が終わって日本に帰ってからも、ことあるごとに思い出し「だまされた!」と怒りをわたしにぶつけるママだった。
ま、旅は計画通りいかないものということで。
ところが、わたしたちの無念は、ひょんなカタチではらされることになる。我が家のお向かいに住むMさんが、ウィーンフィルハーモニー管弦楽団のニューイヤーコンサートを聴くために、年末年始にウィーンを旅行され、おみやげにホテルザッハーのザッハトルテを買ってきてくれたのだ、ひゃぁ~~!
なんてステキ過ぎるお土産!お願いもしてなかったのに。と言うかお持ち帰りできるなんて知りませんでした。きれいで頑丈な、あれは何と言うのだろう、木の皮みたいな薄い素材、駅弁で幕の内弁当なんかを買うとああいう素材の入れ物に入っていたような、、でも、はっはっは、もちろん幕の内弁当の容器よりもっと上品で、軽いのに頑丈で、ちゃんと「ホテルザッハー」の名前が刷ってある。
ママとナイアガラの滝のような涙を流しながら、その濃潤なチョコレートの芸術品をほうばったのだった。(木村はこぶしを握った、橋本はやり遂げるしかないと言った、トンカツは涙の味がした、←プロジェクトX風に読んで下さい)
ところで運というか縁と言うか、人の巡り合わせとは不思議なものだ。ザッハトルテをおみやげに買って来てくれたMさんは、昨年の初夏に我が家のお向かいに引っ越して来られたのだが、Mさんが来られる前は、その家には高校生のお嬢さんが2人いらっしゃるご家族が住んでいた。その2姉妹の妹さんのほうは、全国でも有名な高校の吹奏楽部に入っていて、吹奏楽コンクールの全国大会で優勝し、その上の大会に参加するためウィーンを訪れているのだ。
その家にたまたま住んだ縁もゆかりもない人が、たて続けてウィーンに行く。これは単なる偶然だろうか?
ウィーンという街が、何か目には見えない運名の糸のようなものを操っていて、いろんな人をたぐりよせているのだとしたら?
そう考えてみると、中世から現在に至まで、確かに様々な有名人がウィーンに集まってきているのがわかる。
ウィーンとモーツァルト
例えばモーツァルト。4歳でピアノを弾き、5歳で作曲を開始、6歳のときには女帝の前で演奏をし、8歳で交響曲を創作、12歳でオペラの楽曲を作制。演奏活動を通じて幼少期より欧州各地を旅してまわり、35年の人生のうちなんと10年2ヶ月を旅に費やしている。
今風に言えばさすらいの旅芸人。そんな、1カ所に腰を落ち着けることのなかったモーツァルトだが、作品の半数近くをウィーンで作曲しているのだ。しかも、オペラ「フィガロの結構」「ドンジョバンニ」「魔笛」、セレナーデ12番/ナハトムジーク、13番/アイネクライネナハトムジーク、ピアノ協奏曲20番、交響曲35番/ハフナー、38番/プラハ、39番、40番、41番/ジュピター、などすべて傑作とされる彼の作品の中でも、ウルトラ最高傑作と評価される作品群は、すべてウィーンで創作されている。ちなみにモーツァルトの出身地はウィーンではなくザルツブルグだ。
モーツァルトは、交響曲を創作する時、様々な楽器ごとのパートや旋律を一度に頭の中で作り上げたと言う。しかも頭の中に出来た曲を譜面に記しながら、同時に次の章を頭の中で創作していたと言われている。
歴史に「もし」はないが、もしモーツァルトの時代にシンセサイザー/シーケンスソフトがあったら、彼はそれをどのように活用しただろうか?
モーツァルトとアインシュタイン
ところでモーツァルトの音楽に含まれる特定の周波数は、脳内における情報伝達を司る神経の強化や、難聴、耳鳴りの改善、心拍の安定等に効果があるという。いわゆる「モーツァルト効果」に着目し実践していた著名人の1人に、特殊相対性理論や光電効果の法則を解明した、20世紀最大の理論物理学者、アルバート・アインシュタインがいる。
アインシュタインは問題で行き詰ったとき、脳をほぐすためにバイオリンを手にして、モーツァルトを演奏したと言う。そのアインシュタインは「死」について問われた時「死とはモーツァルトが聴けなくなること」と答えている。
死をさけることは誰にも出来ない。そしてやっかいなことに、人は自分がいつこの世を去るかなど知り得ない。
アインシュタインは2011年ウィーンにオープンしたマダムタッソー蝋人形館で奇しくもウィーンに帰還した。没後56年後のことだ。そして彼の56点の手紙がクリスティーズのオークションに出展された。
ウィーンとカラヤン
20世紀が生んだ最高峰の指揮者、ヘルベルト・フォン・カラヤンも、また不思議な力でウィーンに引きよせられた1人だ。
モーツァルトと同じザルツブルグ出身のカラヤンの偉業は、オーケストラの指揮をとり、歴史に残る名演奏を、星の数ほど残したことだけではない。
コンサートやレコードの売り上げ収入憎を計り、それで得たお金で団員により多くのギャラを支給する。カラヤンのオーケストラはギャラがいいため、一流の演奏家が集まってくる。一流の演奏家が集結したオーケストラだから、お客は高いお金を払ってコンサートにやってくる。そういう好循環のシステムを、誰よりも早く考案し実行たのだ。
さらに集まってきた一流の演奏家たちを、ものすごいパワーでひとつにまとめる。そこには優秀なビジネスセンスと、経営者としてのカリスマ性を併せ持つカラヤンの別の素顔が読み取れる。
ウィーンの声に耳を澄ます
2008年、生誕100周年をむかえたカラヤンは、1989年4月24日、ウィーンでおこなったウィーンフィルハーモニー管弦楽団での演奏が、この世で最後の演奏になった。
死をさけることは誰にも出来ない。そしてやっかいなことに、人は自分がいつこの世を去るかなど知り得ない。
でももしかしたら、カラヤンやモーツァルトやアインシュタインほどの「天才」なら、それを知りえたのかもしれない。
歴史に「もし」はないが、それでも考えずにはいられない。もしカラヤンが、自分の最後の演奏と知っていたなら、なぜ場所がウィーンで、楽団がウィーンフィルで、曲がブルックナーの交響曲第七番だったのか?
ハプスブルク帝国の首都して、およそ600年にわたり栄華を誇った芸術の都ウィーン。
青く美しきドナウの流れに身をまかせ、この街に不思議な縁でかかわった人たちの魂に思い馳せる時、街路樹をゆらす風とともに、どこからともなく声が聞こえてくる。
音楽がなくても人は生きていける
でもそれは光の届かない牢獄に心がつながれた人生だ。
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